2010年11月29日月曜日
回想 ~ 伊那谷に至る道 ~
なんで海のない奈良から、同じように海のない長野に来たの?って
時々聞かれることがあります。
確かに面白いですよね…
我が家のライフスタイルというものを上手に説明できるかどうか、正直なところわかりません。目指す場所はぼやぼやーっとした曖昧なイメージの中なんです。
もっともずっとずっと将来のことやから、精密描写のようにはっきりくっきりとはいかんわけです。
でも、なんとかしてそこに行きたい。1年にたとえ2mmでも近づいていけたら、そんなペースでもええと思うんです。
ごく自然の成り行きで縁あって今の自分があると思いますし、決してこれから先、自分の力だけで生きていけるとは思えません。
自分の経歴を書けば長くなってしまいますが、書きます。(笑)
自他ともに認める「変わり者」の自分は昭和46年1月、奈良市出身のヤギ座、亥年生まれ。
物心ついた頃には周りにいたたくさんの職人さんが遊び相手というのはいわゆる“大工さんの家”に生まれ育った独特な環境でしょうか。
人口400人ほどの集落のうち約半分が身内という田舎。いろいろ事情があって、祖父母のもとで5才中ごろまで過ごしました。
今の自分が“作る人”である起点はこのころにあるように思っているのは、亡き祖父と同じく今年亡くなった叔祖父から受け継いだものが大きいからでしょうか。自分自身の中でそれは一生涯、消えることはないと感じています。
「人間、五体満足に生まれたからは、人のため世のためにそれを使わなあかん。」
背が低くても貫禄があって誰からも信頼が厚い棟梁。でも、一度怒らせると鬼どころの騒ぎやないと評判やったことを聞いたのはずいぶん後のことで、孫の自分は二人とも仏様のようなやさしい顔しか見たことがない。大工仕事を教えてくれた親方は鬼どころの騒ぎやなかったですが…(笑)
思春期。中学高校時代はビーバップハイスクールのような毎日で…(笑)
そんな中、高校ん時に物理を教えてくださってた担任との関係はいまだに信じられないぐらいええもんでした。と言うか、数々のエピソードの中でクラスはひとつにまとまっていったんでしょうけど…。
どこかで書きましたけど自分自身、物理そのものもよく理解してたと思うし、“物理的”な考え方が面白く感じるようになったのはムーミンこと担任のおかげ。(笑)
同時に自分が思い描いていた彫刻家への夢とか表現したいこともよく理解してもらってたように思います。
「ふじたぁ~、お前には才能がある!一生そっちでやっていけよ。」
卒業式が近い教え子を居酒屋に始まってスナックまで付き合わせ、朝までハシゴ。ってどんな教師やねん!と思うけどあん時の酒は美味かったなぁ。(笑)
なんせ中学2年生のころイサム・ノグチに影響を受け石彫作家志望やったので親も先生もビックリやったんやろうけど、本人は至って真剣。芸大進学の実技だけの一本勝負(入学試験)に自信は過剰気味でしたが、それ以降、全国模試というものはまったく受けずに創作活動や実技の準備に打ち込めたように思います。
高校時代は絵を描いてるか石を彫ってるか自転車に乗ってるか…。長い休みは自転車旅行であちこちに行きました。九州縦断が一番思い出深いかな…
芸大に入っても興味のない講義はほとんど出席せず、早朝4時から夜の9時ごろまで大きな石と向き合ってひたすら作品を作ってるかグランドで汗を流してるか、酒を呑んでるか。(笑)
高校時代から東京や各地で開かれた展覧会で大きな賞をいただいたりもしたけど、受賞した作品はたいてい自分の中では満足できるものではありませんでした。
卒業後は彫刻家のアシスタントで全国へ飛んだり、石屋さんでアルバイトしながら制作活動、大阪南港のATC(東京で言えばお台場みたいなとこです)で似顔絵屋をやったり、合間に長距離トラックに乗ったり…。まぁ、なんとも落ち着きのない生活…。
阪神大震災の救援物資輸送第一弾に携わった時、自分のトラックに向かって地べたに正座して手を合わせるお婆ちゃんの「有り難い有り難い。なんまんだぶ、なんまんだぶ。」の姿を見た時、それまでの自分の中にあったものが根底から覆された気がしました。
で、それがきっかけというわけではありませんが数年間、大工の修行。根垣(ねがき)と呼ばれる一人前としてのお披露目のイベントの頃に、芸大で同期だった嫁さんと結婚。
その後、子供らの誕生…。
子供らはぜんそくやアトピーがあって、その頃から夫婦の頭の中である思いがふくらんでいったわけです。
「自然豊かな場所で暮らしたい…。」
「子供も自然の中でのびのびと成長してほしい…。」
もちろん
「アトピーとぜんそくがどうにか治まってくれる環境」を求めて…
そんなことから始まった西へ東へ新天地探し。
いろんな条件が合うところを求めて高知、岡山、兵庫、三重、岐阜、静岡、山梨、長野…
一時期はカナダとかアラスカなど海外も視野に入れていたのですが、故郷奈良を捨てるわけではないのでお互いに行き来できる範囲をいろいろ探したり情報を集めたり…。
多くの人々との縁に恵まれ、我が家は長野県にたどり着いたと思います。
2005年夏、岡谷市に移住。子供らはその年にアイスホッケーを始め、身体も徐々に丈夫になっていきました。子供らを見ていて親の影響が大きいと感じるのはやっぱり図画工作や音楽などに個性的なこだわりを見せるところでしょうか。
勉強はそれなりにやってほしいけど、それよりも外で遊ぶことのほうが大事。
なんでって、信州の“外遊び”には自然科学がいっぱいあるし、不思議なことを自分で発見できるようになってほしいなぁと…頭の悪い親父。物理が最高に面白くなった瞬間のことを何度も彼らに話してしまうわけですよ。
「父ちゃんがアメフトでクウォーターバックをやってたのは、物理をよく理解して遠くにパスを投げれたからや。」なんて…。(笑)
今、住居をかまえて暮らしている環境は、毎年すぐそばまで熊が下りてくる。めりはりのある四季と満天の星に包まれる。土を観察しながら果物や野菜を育てる。豊富な食材から季節料理を愉しむ。不便を感じたら周りにあるもので作る。そんなことの繰り返し…
面白い生活への工夫を家族全員がやらなあかんわけです。
表現するには画材や筆、カメラ、楽器などの道具が必要ですが、アイデアの実現にはそれ以外に知識が必要であったりします。その都度、必要な勉強をきちっとやらなあかん。親子で手分けして新しいものは生み出されてゆきます。そのひとつひとつが我が家のライフスタイルには欠かせないもの…。
奈良にいた頃、身内で固められた集落は結束力が強く、不安の材料になるものは何もありませんでした。田舎ではあっても交通の便が良く、半時間もあれば大阪や京都の中心部に行くことができる。
逆に今は不安材料は絶えず、暮らしは“不便”に囲まれてるのかもしれません…(笑)
でも、故郷での暮らしは生活が出来上がっていて何か新しいことを始められる環境ではなかったわけです。
子供にはお金には換えられない何かを残してやりたいと…、今もずっと考えてたりするんですが、それはこんな暮らしそのものです。
求めているのはある種、遊牧民的な生き方かもしれません。
今は「農」に囲まれた暮らしを大切に、いずれは嫁さんのトールペイントやクラフト、自分の木工なんかの手作りの工房やフェアトレードの店をやってみたいという夢もある。ヤギ牧場をちゃんと作ってヤギミルクを使った栄養価の高い乳製品を作るというようなことにもチャレンジしたい…。
子供らには個性をどんどん生かして欲しいし、彼らの成長とともにそういう計画も変わっていくんやと思います。
ただ、何の形もないところから家族全員で暮らしを発展させることがやっぱり大事やと思います。
行き当たりばったりというのが苦手でなにもかも安心安全じゃないとダメという人も理解できないわけじゃないけど、人生も旅もいつ何が起こるかわからんのが自分にとってはワクワクするぐらい楽しい。
やってみてあかんかったら戻ったらええやん。
やらんとあきらめるよりやってみて失敗したほうがええやないか、と…。
トイレには神様がおるんやでぇ~♪なんて歌が毎日のように流れてますけど、自分も幼いころにそういうようなことをよく言われてました。
「おじいちゃんみたいにすっごい竹とんぼを作りたい…。」
しょっちゅう言うてたのか、6才の誕生日にカッターナイフを買ってもらって…
それがなぜかキティちゃんのキャラクターのもので…(笑)
で、いきなり左手の人差し指をザックリやってしもて、えらい泣きましたわ。
「えらい血ぃ出てしもて、かわいそうに…。刃物は恐いもんやで、気ぃつけなあかんがな。恐い恐い刃物にはな、神さんがおってな、その神さんがこれは恐い道具やっちゅうのを教えてくれてはんのや。」
確かにそれ以来、自分の道具ひとつひとつにはそれぞれ“神さん”がいると信じてる…
ちょっとズレてしまいそうですが、親父としてたいそうなことをしてやるつもりはありません。
でも、子供に伝えたいことの中で、ほかに譲れないものがあるとすれば…
男の子も女の子も『作れる人』になってほしい。
大工さんのようにお家を建てるのか、料理人のように美味しい料理を作るのか、人々を魅了する音楽を作るのか、新エネルギー時代の世の中に必要とされるものを開発するのか…
すべてに共通する要素はこんな暮らしの中にあると信じています。
我が家にとって理想的な「不便」がここにはある。その「不便」こそ大切な要素のひとつやと考えるわけです。
なんやら長々と書いてしまいましたけど、ちょっとは理解していただけるでしょうか…。(笑)
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2 件のコメント:
鬼六さんありがとうございます。
いつも「作る、造る、創る」という環境で育った鬼六さんがそのDNAを受け継いで今がある、ということが分かりました。
理想はあくまで「そうだったらいいなあ~」程度のものというのが普通ですが、鬼六さんと奥さんは、お二人ともきちんとそこに向かって歩く勇気を持っていらっしゃる。勇気というのは、第三者から見て、普通だったら躊躇していまうであろうという、あくまで第三者的な表現で、鬼六さん一家にとってはただ信じる方向へ一歩ずつ歩いている、そんな感じでしょうか。
それにしても、このブログは学ぶことというか、自分が置き忘れてきたものがたくさんあって楽しみなんですよね~。
「そうだったらいいな~」への過程をこわがらず面倒くさがらす、一つ一つ積み重ねてみましょうか。
鬼六さんのおかげで、今年はセーターが3着ほど仕上がりそうです。あと、今年のもう一つの目標は、りんごの皮むき!長女はOKなので、他の3名が挑戦します。
それにしても、奥様、刺繍も生活力もすばらしいです!
>ルリボシヤンマさん
すいません、くだらない記事になってしまいました。(泣)
おまけにプロが撮った(某雑誌の取材の際の)写真で見栄えを良くしたつもりなんですが、読み返してみるとこれはまさに自分を「美化」する行為ですね…。反省です。
記事を書く時、田舎暮らしを美化しすぎるとそれに憧れる人に対して、なんとも無責任に「実行」を勧めることになってしまいます。
いいとこばかり写真を撮って、いいことばかり記事にしてしまいますが、実際は写真に写せない汚いところもあるし、暮らしの中にはしんどいことも多々あります。お金がたまらないどころか、足りることがなかったり…。(笑)
お金だけじゃなくて学校や地区、いろんな集団の中にいると、伝えたい言葉が人に通じなかったり、一般常識からはかけ離れた考えでいることを感じたりすると寂しくなったりします。
親の考え方で子供にも苦労させることもあるでしょうし…。
実際のところは勇気なんていいもんじゃないですよ。亥年生まれが猪突猛進しただけのことです。(笑)
当たって砕けないようにどないしようかと躊躇してばかりですし、いつも何か問題を抱えてます。
ほんと、子供らの目にこの親父はどう映ってるんでしょうかねぇ…
セーター3着ってすごいじゃないですか!?
お母さんが編んでくれたセーターの温かさって忘れられないいいものですよ、がんばってくださいね…。
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